三大宝石、五大宝石の中に唯一の有機物で入っているのが真珠(パール)です。
アコヤ貝に代表されるような真珠貝の中から取れる宝石で、厳密に言うと鉱物ではありません。

 

二枚貝の中に、砂粒のような異物が入ると貝はそれを吐き出すことができません。貝は、分泌物を出して異物を何層にも渡って取り囲むことで身を守ろうとします。

こうして、真珠光沢と呼ばれる穏やかで美しい輝きをもつ真珠が誕生するのです。

 

優雅で、温かな美しさを持つ真珠は、他の宝石とは比較できない気品さをもち、世界中の人たちから愛されてきた宝石といって過言ではありません。古くから月と関係づけられ、女性のシンボルでした。
また、多くの宗教で最も完成された聖なるものの象徴とされることも多いのです。

 

 

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真珠(パール)の呼び名

海の宝 「珠」

日本では、古来、陸の宝を「玉」(たま)、海の宝を「珠」と呼んでいました。勾玉も、玉なので球状を意味しているわけではありません。
特に真珠は、「白珠」(しらたま)という名で、貴重なものとされていました。
日本書紀や万葉集にも「真珠」や「白珠」が登場します。丸みを持って、光り輝く珠を真(まこと)の珠(たま)と呼んだのではないでしょうか。

パールの語源

英語のパールはラテン語の「ペルナperna」(貝の一種)に由来しています。しかし、ヨーロッパでは、古くから、ギリシア語系の「マルガリタmargarita」と呼ばれています。プリニウス(大プリニウス)の『博物誌』(第9巻)には、「受胎の季節になると貝は口をあけ,天から降ってくる露を吸いこむ。こうして受胎した貝から生まれてくるのが真珠である」とあります。また「真珠は海の影響よりもむしろ天候の影響を受け、雲の色や朝の光がそのまま真珠に反映し、稲光がすれば貝は口をとざして小さなものしかできず、雷が鳴れば真珠は中空のものが生まれてしまう」ともあります。

 

真珠の石言葉

 

長寿 純粋 無垢 富 健康

 

真珠の伝説

天皇に命をかけて真珠を献上した海人の話 【日本書紀】

 

允恭(いんぎょう)天皇の時代です。允恭(いんぎょう)天皇は、第19代天皇で、古墳時代の全盛期である古墳時代中期の天皇です。

 

14年秋、9月12日。天皇は、淡路島に狩りにでかけられました。その日は、全く収穫がありませんでした。鹿や猿、猪などが沢山、山谷に入れ乱れていたのにです。狩りを止めて占いをされると、島の神が祟って言われました。
「獣がとれないのは、私の心によるのだ。明石の海の底に真珠がある。その真珠を取ってきて、私に供えて祀るのなら、獲物はとることができるだろう。」と。

 

そこで、あちこちの海人を集めて、明石の海の底にもぐらせるのですが、あまりに深くてだれも海底までいけません。でも、一人だけ潜れる者がおりました。男狭磯(おさし)という阿波国の長邑(ながむら)の住人です。彼は、腰に縄をつけて海にもぐりました。しばらくすると、浮き上がってきて、「海の底に大きなアワビがいます。そこは光っています。」と報告しました。
皆が「島の神が欲している真珠は、きっとそのアワビが抱いているに違いない。」と言っているのにうなづくと、また海にもぐっていきました。

 

男狭磯(おさし)は大アワビを抱いて浮き上がります。でも、息絶えて死んでしまったのです。仲間たちが縄を降ろして海の深さを測ると、60尋(1尋は両手を左右に広げた幅)もあり、その深さに改めて驚愕しました。

 

アワビを開くと、桃の実ほどの見事な真珠がありました。すぐに、この真珠を供え島の神をお祀りをされ狩りをされ、たくさんの獲物が獲れました。
ただ、男狭磯(おさし)が海に潜って死んてしまったことを悲しみ、墓を建てて手厚く葬られました。男狭磯(おさし)の墓は今でも残っているそうです。

 

※なお、兵庫県淡路市にある「石の寝屋古墳」を男狭磯の墓とする伝承がありますが、この古墳は6世紀代の築造とされていますので、允恭(いんぎょう)天皇の時代よりかなり後の時代です。(参考 Wikipedia 男狭磯 )

 

高価な真珠を酢に溶かして飲み干したクレオパトラ

 

映画『クレオパトラ』(1963年)のエリザベス・テーラー(クレオパトラ)とリチャード・バートン(アントニー)

 

 

プリニウス『博物誌』に載っている有名なクレオパトラ7世にまつわる真珠のお話です。
紀元前1世紀頃、最大の真珠が世界に二つありました。それは二つとも、古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王であるクレオパトラが保有しており、東方の王から送られたものでした。当時の真珠は小さな国ひとつ分ほどの価値があったそうです。

 

ある時、アントニウス(アントニー)はクレオパトラを招待し、夜ごと豪華なパーティ─を開いて得意になっていました。「こうしたぜいたくなパーティ─を続けることは私以外に誰が出来ようか」と言いました。
すると、クレオパトラが、「私なら一度のパーティ─に1千万セステルティウス(小さな国が1つ買えるほどの金額)のお金を使ってみせましょう!」と豪語しました。
アントニウスは「これ以上の豪華なパーティ─が出来るものか」と言い、彼女と賭けをすることになりました。

 

翌日、彼女のパーティ─が開かれましたが、さして昨日と変わらない御馳走だったから、アントニウスはクレオパトラを嘲笑います。

 

しかし、クレオパトラは予定どおり料理を出すと、最後に酢の入ったグラスを召使に持ってこらせました。すると、身につけていた大きな真珠のイヤリングを外し、コップの中に落としました。そうして真珠がだんだんと溶けていき、完全に溶けた時、彼女は一気に飲み干してしまったのです。その真珠は、世界で最大の二つの真珠のうちの一つでした。つまり、1千万セステルティウスの価値というのは、真珠だったのです。

 

さらに、彼女がもう一つの真珠を外そうと耳に手を当てた時、審判係のルキウス・ブランクスが「これはアントニウスの負けだ!」と叫び、もう一つの真珠をコップに投げ入れるのを阻止しました。

 

一粒の真珠が一国の女王のプライドを証明して見せたわけです。

 

後日談ですが、クレオパトラのもう一つの大真珠は二つに割られて、オクタヴィアヌス(古代ローマ初代皇帝)によって、ローマのパンティオンのウェヌス(ヴィーナス)神の両耳を飾ることになったそうです。

 

※ちなみに真珠は酢にとけるかという疑問がありますが、真珠層は主に炭酸カルシウムからできており、酢の主成分である酢酸に溶けます。ただすぐ溶かすには酸度が強くなければなりません。

 

真珠は不老長寿の象徴 仙女・麻古から楊貴妃

 

真珠が不老長寿の象徴であることは、万国共通ですが、殊に中国における真珠の歴史は古く、「珍珠」と書き、薬として使用された歴史も長いのです。

 

中国神話の麻姑

 

 

その昔、麻姑(まこ)という、蓬莱山の住んでいる女性の仙人がいました。その容姿は、いつまでも18、19歳の若く美しい娘のままでした。それもそのはず、麻姑は、不老長寿の象徴なのです。

 

そして、麻姑のトレードマークがこれがまた真珠だったのです。晋(265年~420年)朝時代に書かれた『神仙伝』などに、麻姑の話が書かれています。

 

漢の桓帝(かんてい)の時代に、仙人の王遠が、蔡経の家に降臨し、麻姑を呼びました。麻姑は蔡経の弟の妻が出産数日後であることを遠目から知ると、帰り際に、清めのためにもらった一握りの米粒を地上に向かって撒きました。すると、地面に撒いた米は、ことごとく真珠に変わり皆をよろこばせました。

 

ちなみに「孫の手」の起源は、麻姑の鳥のように長い爪で背中がかゆいときにかいてもらえば気持ち良かろうところの「麻姑の手」だそうです。

 

真珠を粉にして服用すると、いつまでも若くて美しくあるという話は、中国では古くからされており、三大美女として数えられる楊貴妃は、真珠の粉を薬として飲んだり、真珠の粉を混ぜたクリーム(楊太真紅玉膏)を塗っていたと伝えられています。

 

【 参考文献 】

  • 『宝石ことば』    山中茉莉 著 八坂書房
  • 『全現代語訳 日本書紀』 宇治谷孟 著 講談社文庫

 

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続く