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【5月の誕生石 翡翠(ジェード)】 その意味と伝説

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翡翠の指輪

東洋の代表的な宝石である翡翠(ひすい)。

健康に恵まれ不老長寿、招福財運の象徴ともされる翡翠の意味や伝説を集めてみました。

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翡翠(ジェード)のプロフィール

翡翠の起源 もともとは玉

中国では、「玉」(ぎょく)と呼ばれ、王の象徴でした。記章もこの石でした。国王が地方の知事に命令を送る時、勅使の印として翡翠の証明を持参しました。

日本でも、天皇のお言葉を「玉音ぎょくおん」、お座りになる席を「玉座ぎょくざ」と言いますが、中国でも「玉座」と言えば、国王(皇帝)の席を意味します。

翡翠はカワセミ

「翡翠」は中国では元々カワセミを指す言葉でした。時代が下ると翡翠が宝石の玉も指すようになったのです。「翡翠」に「翡」は赤、「翠」は緑を意味していることから、水辺に住むカワセミからその名が付いたと言われています。

ジェードの起源

翡翠は、西洋では「ジェード」と呼びます。スペイン人は、メキシコのアステカ王国を滅ぼした時、メキシコ人が肝臓や腹部の病気に対して、腹部に翡翠の石を乗せて治療用に使っているのに驚き、スペイン語で「ピエドラ・デ・イジャ(piedra de ijada)」(横腹の石)と呼びました。

それが転化してジェードになったと言われています。

また、ジェードの中でも柔らかい「ネフライト」は、古代ギリシア語で「腎臓」を意味するnephrosと英語で鉱物を意味する-iteからきています。

翡翠の種類   硬玉と軟玉

翡翠は、硬度や比重、屈折率など化学的にも全く違う「硬玉」(ジェダイト)と「軟玉」(ネフライト)に分けられます。

つまり、同じ「翡翠」と言っても、 硬玉と軟玉は、まったく違う鉱物なのです。

わが国で翡翠は、硬玉のことで、軟玉と区別するために通称「本翡翠」とも呼ばれます。見た目が非常に似ており、1863年までは同じ種類の石と考えられていました。

また、「硬玉」は、「ヒスイ輝石」とも呼ばれます。

「硬玉」(ジェダイト)の方が、「軟玉」(ネフライト)が若干硬くその名前で区別されています。

硬玉と軟玉の違い

軟玉(ネフライト)には産地によって別の呼び名がある

  • シベリアン・ジェード … 1850年に発見され、最も良質なものと知られる。
  • アラスカ・ジェード … エスキモーの石器から1884年発見。
  • ワイオミング・ジェード … ウィンド・リバー山脈から産出。
  • ブリティッシュ・コロンビア・ジェード … カナダ産。「BCジェード」と呼ばれる。
  • 台湾ジェード … これを「本翡翠」(硬玉)だと勘違いする人が多い。

翡翠の宝石の色

一般的には、翡翠は緑の石と思われていますが、白、黄、橙、橙赤、赤、青、薄紫、黒などたくさんの色があります。

薄紫は、「ラベンダー・ジェダイト」と呼ばれ、アメリカなどで人気です。濃緑から黒を示すものは「クロロメ・ナイト」の名称があります。

最も最高級とされるものは、琅玕ろうかんと呼ばれる鮮やかで濃く透明感のあるものです。

ダイヤモンドに勝る翡翠の衝撃への強さ

鉱物の硬さを示す値には、モース硬度の他に「靭性」(じんせい)という尺度があります。靭性とは破壊に抵抗する「粘り強さ」や「衝撃への強さ」を数値化したものです。靭性が高いものは、衝撃を受け流すので、割れにくい性質を持っています。

翡翠は、モース硬度は、ダイヤモンドには劣るものの、この靭性において、ダイヤモンドは7.5に対して、翡翠(ジェダイト)は8です。翡翠は、ダイヤモンドに勝る粘り強さがあるのです。

翡翠は、日本の国石

日本鉱物科学会は、2016年9月24日の総会において「ひすい (ひすい輝石およびひすい輝石岩)」を国石として選定しました。翡翠は、縄文人たちが約6、500年前から使い始めました。世界でも、最古級の翡翠の文化があったのです。

中国の古玉は軟玉、日本の古代は硬玉

中国の古玉は、戦国時代に後期に西域(トルキスタン地方)で発見された軟玉(ネフライト)で、後の中国の玉工芸の発展を促しました。

日本全国の遺跡から縄文時代から古墳時代にかけて出土する翡翠製の管玉くだたま勾玉まがたまは、ほとんどが新潟県糸魚川産の硬玉(ジェダイト)です。

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翡翠の意味 【石言葉】

翡翠の石言葉は、

福徳   ②福財

です。

① 福徳

翡翠は、古来より東洋で徳を高める石として大切にされてきました。中国では、「玉」には、仁・知・義・礼・信の五つの徳があるとされています。

「福徳」は、人徳を磨き、周囲からの信頼や尊敬を得ることを象徴します。持つ人の心を清め、誠実さや思いやりを育むことで、幸福へと導く石とされています。

② 福財

翡翠は、豊かさを呼び込む力を持つと信じられ、「福財」を象徴します。「福」は、幸福、幸運、恵みなどを意味します。
「財」は、財産、富、財運、豊かさなどを意味します。

物質的な富だけでなく、心の豊かさや人間関係の恵みも与えるとされます。人生を安定させ、長寿や繁栄をもたらす守護石として古来より尊ばれてきました。

翡翠の伝説

大国主命が通い詰めた 翡翠の女王沼河姫ぬなかわひめ

『古事記』には、葦原の中津国の統治者である八千矛神やちほこのかみ(大国主命)が、沼河姫(奴奈川姫)の評判を聞き、姫の住む高志の国(新潟県)にはるばる出向いて求婚したという話が載っています。
次のようなお話です。

八千矛神は、彼女の家につくと、長々と求婚の歌を詠み上げました。

「八千矛の神と呼ばれる私は、自分にお似合いの妻を探していた。遠い遠い高志の国には、優れた美しい姫がいると聞いて、ここまでやってきた。

まだ太刀の紐も解かず、旅の衣も脱いでいない。あなたの家の前でこうして戸を押したり引いたりして揺さぶって立っている。戸を叩いているが、いまだに戸が開かないのは姫が眠っているからだろうか夜も更けて鵺(ぬえ)が鳴いた。

そして、雉が声を響かせる。庭の鶏が夜明けを告げようとしている。ああ、にくい奴らだ。あの鳥どもを打ち叩いて鳴くのをやめさせてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ。」

すると、家の中から戸を開けずに沼河姫はこう歌を返しました。

「八千矛の神よ。私は風にしなう草に似た女なのです。渚の鳥のように心さびしいのです。

今はまだ波におびえる私鳥。きっと後には、あなた鳥になりますから、鳥たちの命はどうぞお助け下さい。お慕いなさる空を飛ぶお使いの鳥たちよ。」

「青山の向うに日が沈んだら、ヒオウギの実にも似た闇夜の夜が顔を出します。その時あなたは、朝日の笑顔を見せてください。

真っ白な綱のような私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸をやさしく抱きしめて、手をつないで足を伸ばして共寝いたしましょう。

ですから、いましばらくは、激しく恋い焦がれなさいますな八千矛の神よ。」

そして、その夜は会わないで、翌日の夜に二神はお会いになり結ばれました。

糸魚川駅と奴奈川姫命の銅像

この神話から、沼河姫が高志国の女神だったことがわかりますが、その場所は、正確には新潟県糸魚川市を流れる姫川だったと言われています。

古代の日本で翡翠の硬玉が産出したのは、この姫川とその近くを流れる青梅川だけで、その土地の女神として沼河姫がいたのです。

そしてここで採れた翡翠が日本列島のほぼ全域で使用されていたということが遺跡の発掘からわかっています。

だから、古代では、貴重な翡翠が採れる高志国と結びつくということが、重要な意味を持っていたと考えられます。

出雲大社の東200mに鎮座する命主社の背後の大石の下から北陸の翡翠製勾玉と、九州産銅戈(どうか)が発見されました。(真名井遺跡)出雲の国と高志の国は、古代に実際交流があったことを示しています。

島根県立古代出雲歴史博物館 展示品 翡翠製勾玉と銅戈

不老長寿を願う宝石 翡翠の伝説

古代日本人は、翡翠にかぎらず貴重な石を、玉(たま)と呼んでいました。そして、その玉は、単純な装飾品ではなく、呪術的な道具であったのです。

玉は、魂の象徴でもあり、極めて尊いものであり、かつ翡翠の美しい緑に、不老長寿や若返りを願ったようです。

そのような歌が、万葉集にあります。

沼名川ぬなかわの底なる玉 求めて得し玉かも    

  拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも 
(巻十三 三二四七 作者未詳)

【一般的な現代語解釈】
沼名川の底にある玉(翡翠)、探し求めてやっと手に入れたり、幸運な偶然から見つけて拾ったりすと、それはすばらしいことです。

その玉と同じような大切なあなたが、老いてしまうのは惜しまれてならないのです。

姫川支流 小滝川ヒスイ峡

この歌では、翡翠は恋するすばらしい男性に例えられていますが、「老ゆらく惜しも」という句の中に翡翠によって、いつまでも若々しい恋人であってほしいという願いも込められています。

さて、この沼名川の比定地(現代のどの川か)については、諸説あるようで、①姫川ひめかわに比定する説や、②田海川とうみがわに比定する説、③姫川と田海川の間を流れる布川ぬのかわに比定する説があります。(参考 沼河比売 國學院大學「古典文化学」事業  )

また、ヌナカハとは、「玉を産出する」川の意味と考えられていて特定の川を意味するものではないとする説もあります。

この姫川の支流である小滝川(こたきがわ)や、青海川(おうみがわ)の流域は翡翠(硬玉)の原産地です。となれば、小滝川こたきがわ青海川おうみがわが沼名川であってもおかしくありません。

このように、古代の日本において、沼河姫の翡翠(つまり新潟県糸魚川市産)は、全国で有名でしたが、利用されたのは縄文時代から古墳時代までで、奈良時代になると、急激に衰退していき、しまいにほとんど利用されなくなりました。

それからは、「日本にはヒスイが産出しない」と言われるほど、糸魚川市産の翡翠は忘れさられてしまいました。しかし、1935年(昭和10年)、約1200年の時を隔てて、翡翠が糸魚川市で再発見されたのです。

古代メキシコの翡翠の神 ケツァルコアトル

マヤ文明やアステカ文明などで有名な古代メキシコでは、古くからケツァルコアトルという翡翠の神が崇拝されていました。(マヤ文明ではククルカンという名でした。)

このケツァルコアトルという神は、鳥の翼があり、体が蛇であり、全身が翡翠の美しい緑色をしていました。

その名は、古代ナワトル語で「羽毛ある蛇」(ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意)からきているのだといいます。

ある神話では、ケツァルコアトルの母が、翡翠の破片を飲んで妊娠し、この神を生んだとされています。

テレリアノ・レメンシス写本(16世紀)に描かれたケツァルコアトル

ケツァルコアトルは、創造神でしたが、平和の神とされ人々に人身御供ひとみごくう(人を神の生贄にすること)をやめさせたといいます。

その対極に、テスカトリポカという戦争の神がいます。その神は、黒曜石の神でした。

「五つの太陽」と呼ばれる神話があります。それによると、現在の人間が生きている世界は、第五の太陽の時代であり、第四の太陽の時代が洪水で滅びた後に造られた世界だといいます。

第五の太陽の時代を造ったのがケツァルコアトルとテスカトリポカです。

この二つの神は、二本の巨大な樹木に変身し、天地を分ける働きをしました。また、蛇に変身し、カイマンワニあるいはトラルテクトリを2つに引き裂いてやっつけて天地を造ったとも言われています。

しかし、天地は造ったものの、地上にはまだ人間は誕生していませんでした。

そこで、ケツァルコアトルは、第四の太陽の時代に滅びた人間の骨を手に入れるために、地下の冥界へと向かいました。

冥界の王ミクトランテクートリは、それを邪魔しようとしますが、ケツァルコアトルなんとか人間の骨を手に入れました。

ケツァルコアトルは地上に上がると、その骨を臼で挽いて粉にしました。

それに神々が自らの血をふりかけ、人間を創ったのです。

それからケツァルコアトルは、人間たちに、農業や火の起こし方、酒の作り方などを教え、平和な暮らしが送れるようにします。

しかしながら、ケツァルコアトルはテスカトリポカの企みによって、メキシコから追放されてしまったのです。

参考文献

  • 『宝石ことば』    山中茉莉 著 八坂書房
  • 『パワーストーン 宝石の伝説と魔法の力』 草野 巧 著 新紀元文庫
  • 『口語訳 古事記 [神代篇』 三浦佑之 著 文春文庫

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